「向かい風を行く」
第四章

向かい風を行く 30

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とはいえ、甲斐は半日以上携帯を一度も見ないこともある。
昨夜は一睡もできないまま、翌朝悶々として仕事場に向かった美貴は、
昼まで待って何も連絡が来なければ、甲斐の自宅に電話しようと思っていた。
それまでするべき仕事に集中しようと腹をくくり、
醤油の仕込み蔵に顔を出した。

「美貴さん、あんた。あの甲斐って子に二股かけられてフラれたことになってますよ?」
大豆を蒸し煮する巨大な機械釜からは白い蒸気が天井までもうもうと上っていた。
その釜の温度管理を担当している従業員は、
首に巻いたタオルで顔の汗を拭き、半笑いになって美貴に言った。
「はあっ?」
美貴は声を上擦らせた。
すると、別の従業員まで屈託のない口調でからかった。
「それ、さっき俺も聞きました。俺が聞いたのは美貴さんが相手の男、
刺した話になってたけど」
あまりに話が荒唐無稽すぎるのは、従業員達も苦笑するしかないようだ。
美貴も次第に馬鹿馬鹿しくなり、怒る気にすらなれずにいた。
 
失笑だけして、蒸し上がった大豆をステンレスの柄杓で機械釜から、
長方形の巨大な木桶に移し替えた。
そのあと他の蔵人と共に木ベラで均して粗熱を取り、
種麹を表面に撒くのだが、
大豆の粒を崩さないよう慎重に作業しながら問いつめる。
どの噂も『甲斐を取り合う三角関係』だというベースの所は変わらない。
その一点に妙な違和感を覚えていた。

「……で、皆。その話、誰に聞いた?」
「俺は嫁さん」
「俺は昨日の合コンで」
二人は美貴と一緒に木桶の中の大豆を平らに均しながら、
決まり悪げに打ち明けた。
しかし、今日の朝も顔を合わせた両親は何も言っていなかった。
だから噂は、町内の若い奴らの間でのみ拡散されているらしい。

自分か甲斐が、何か逆恨みでもされたのだろうか。
思い当たる節がないか、思案しかけた時だった。
作業着の尻ポケットに突っ込んだ携帯が着信音を蔵の中に響かせた。
奇声を上げて驚いた美貴に、従業員も渋面を浮かべている。
「どうしたんスか、もう。さっきからー」
「悪い、ちょっと」
美貴は呆れる従業員に断りを入れ、携帯を出しつつ蔵を出た。
だが、甲斐からのラインは、『今、ばたついてるんで』の一行だ。

「てめーっ! ラインできんなら電話できんだろうが!」
と、罵倒しながらその場で電話したものの、
やはり留守電サービスになってしまう。
その時、初めて甲斐に意図的に避けられているのだと。
連絡『できない』ではなく、連絡したくないのだと、
美貴は何の脈絡もなく確信した。


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