「向かい風を行く」
第四章

向かい風を行く 29

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榊原を師として仰ぐ甲斐のことだ。
他の誰にも言えなくても、榊原になら相談していたかもしれない。
苛立つ自分を落ち着かせるため頭の中でくり返した。
だが、美貴は顔をしかめて黙り込んだ。それぐらい頭では理解できる。
そう考えても不思議ではない。むしろ師弟の絆がそれだけ深いということだ。
甲斐には良いことに違いない。

こんな時、いちばん甲斐の近くにいる人が業界では権威があり、
甲斐を守ってくれるなら、ほっとできるはずなのに。
胸には湿りけを帯びた黒い靄が立ち込めるのを感じていた。
甲斐を心配してるのに、つまらない嫉妬にかられる自分に苛立った。
美貴はぎゅっと目を閉じた。
そして自分を戒めるように拳で眉間を叩いたあと、
団員のいる座敷に駆け戻る。

「お前。さっきの話、誰に聞いた?」
慌ただしく自分の荷物をまとめると、
美貴は甲斐の噂をおもしろおかしくしていた輩を問い質した。
「はあっ? 誰って別に。覚えてねえよ」
反射的に否定したこの同期の男は、美貴の醤造所近くの精肉店の後継ぎだ。
男はとぼけてみせたものの、美貴の剣幕に臆したのか、
最後は店頭で売っている惣菜の唐揚げやコロッケを、
買った客から聞いたと白状した。
「知ってる奴か?」
「いや、たぶん初めて来た客。見たことねえのに、いきなり甲斐の話ふってきて。
何か変な女って思ったし」
「女?」
「甲斐と同い年ぐらいの、学生っぽい感じだし。すげえ美人だったから。
一度でも来てたら覚えてるよ。
綺麗だったし、愛想いいし。なんか俺もつい話、合わせちゃったけど」
「わかった。甲斐と同い年ぐらいの女だな」
 
美貴は自分の支払い分を幹事に預けて店を出た。
狭苦しい路地裏の横丁は原色の電光看板で点々と照らされ、
通り過ぎる店からは炭火焼の香ばしい匂いや、
男女入り混じる笑い声が聞こえてきた。
そんな楽しげな酔客の賑わいにまで腹を立て、わき目もふらずに路地を出る。

それでも自宅に着くまでの間、ずっと携帯を眺めていた。
しかし、甲斐からの応答はないままだ。
そのあと十分ほどで帰宅して、甲斐の連絡を待ちながら、ネットでも検索してみたが、
それらしい傷害事件のニュースは何も出てこない。
美貴は風呂にも入らずに、自分の部屋で悶々と連絡を待っていた。
携帯を脇に置いたまま、
ベッドの上で寝ころんだり、胡坐をかいたり、窓の外を見てみたり。
狭い檻に入れられた獣のように部屋の中をうろついた。
気づいた時には日付をまたいでしまったが、
甲斐からは電話もメールもラインも何も来なかった。


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