「夜のギヤマン」
第五章

夜のギヤマン16

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「……どうして駄目になっちゃったんだろ。彼だって私と結婚するって言ってたのに」
 暗にフリーになった事を匂わせながらこぼす愚痴も以前と同じ。
 小耳に挟んでいるだけでうんざりするような泣き言だったが、耳を傾けている鬼島は紳士で真剣だ。

 もしもこの前自分も鬼島に会えていたら、やっぱりあんな風に真摯に向き合ってくれたのだろうか。けれどもその眼差しの熱量は、こうして目の前にいる女に向けた熱量とどれほど違っているのだろう。
 具にもつかない想像で勝手に一人で落ち込んでいると、ごく控え目に入り口のドアが押し開けられた。

「いらっしゃいませ」
 カウンタ-の中から声を張った鬼島が一瞬怪訝そうに眉をひそめる。 
 そんな鬼島につられるように神谷も肩越しに振り向いた。   

 現れたのは三十代の小柄な女性。
 シンプルな半袖のカットソーにジーンズという飾り気のない服装で化粧気もなく、黒髪を首の後ろでひっつめている。このバーは女性の一人客も多くいるが、一人で銀座のバーに立ち寄るタイプに見えない気がした。

「どうぞ。お好きな席にお座り下さい」
 堤は席を外しているのか。カウンターから鬼島が手前の席へと促す。
 しかし、彼女は入り口付近で佇んだまま、上目使いに店の中を見渡した。次第に荒々しくなる女の息が耳につき、神谷は思わず眉をしかめる。
 女の頬を流れる汗も尋常ではなく、カウンター席に座る九頭身美女を血走った目で凝視している。

「お客様……っ」
 あきらかに常軌を逸した女が持参の鞄を開けた時、鬼島がふいに大声を出す。
 そのままカウンターを出ようとしたが、件の女が腕に絡んで果たせなかった。咄嗟に神谷も席を立ち、入り口を向いたその刹那、女が脇に抱えた鞄から出刃包丁を出してくる。
「危ない……っ!」
「神谷っ!」
 切迫した二人の怒声に二人の女の狂気のような悲鳴が重なる。なぎ倒されて砕けるグラス。床に飛び散る氷と破片。カウンターに片手をついて乗り越えてきた鬼島が神谷の腕を掴んで自身の背後に押しのけた。

「鬼島さ……っ」
 体を反転させた神谷の真正面から般若のような女が咆哮しながら駆けてくる。そして同時に、女が握った包丁が鬼島の胸をまっすぐめがけていくのが見える。神谷は夢中で鬼島を引き寄せ、今度は自分が盾になる。
「神谷……っ!」
 鬼島が悲鳴のように叫んだ直後、左の肩が火傷のように熱くなり、小さく呻いてよろめいた。そのとき足を滑らせて、こめかみ辺りをスツールの背に打ちつける。
「うっ、あ……っ!」
「神谷っ!」
 ボールのように頭が跳ねて弾んで視界がぶれる。真っ暗になった目の裏に閃光のような火花が散った次の瞬間、ぐにゃりと体が傾いでいった。        

「神谷っ……!」
 頭の中で反響するのは鬼島の絶叫。救急車だと叫ぶ声。鬼島は無事か、大丈夫かと神谷は必死に目を開けた。     ガラスの破片が散乱している床に女がうつ伏せになり、鬼島に押さえこまれている。壁際の床には血糊で汚れた出刃包丁。その包丁を遠巻きにして、先客の美女が呆然として立ち尽くしていた。

「神谷君!……大丈夫か、神谷君っ!」
 堤に抱き起されてゆさぶられ、神谷は頷きながら笑って応える。
 店の外の階段を駆け降りてくる人の足音。飛びかう怒声とけたたましいサイレンの音を意識の端で捕らえながらも、やがて力尽きるように崩れ落ちた。  




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